最終更新日:2025年6月21日 山歩きの会纏向遺跡箸墓古墳奈良
第92回 山歩きの会「纏向遺跡を歩く」

第92回 山歩きの会「纏向遺跡を歩く」
JR奈良駅からまほろば線に乗り換え、9時30分、目的地巻向駅到着。 ボランティアガイドさんと待合わせ、大規模集落遺跡の纏向から8名でスタート 。
石塚・勝山・矢塚・東田大塚・箸墓・ホケノ山・茅原大墓・狐塚・弁天社の9か所の古墳を巡りました。
それぞれ特色ある古墳でしたが、中でも纏向遺跡の南側に位置する箸墓古墳(3世紀中頃~後半、前方後円墳280m)は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とも言われています。
卑弥呼が治めたとされる邪馬台国の話は以前より九州説と畿内説があり、約35年前吉野ケ里遺跡が発見されこの吉野ケ里ではとの説に傾きましたが、実は纏向では?と再び論争になっています。
纏向遺跡は出土物から農村ではなく政治や交易の中心地で、日本最初の首都であったと考えられています。当時の様子を記した魏志倭人伝(中国の書物)によれば日本はいくつのも国があり争いが絶えず話合いにより一人の女王、卑弥呼を立ててその下にまとまった?但しまだ2%の発掘で決めては見つかっていません。
古代のロマン溢れるこの纏向の地、出来ればタイムスリップして当時の様子を見てみたい衝動にかられます。
また歴史の重みと後世に伝えていく必要性も強く感じました。 今回の散策は、遠くに二上山を眺めながら三輪山の山裾を巡る、終始清々しい気持ちの散策でした。
※上の写真が卑弥呼の墓かもと言われている箸墓古墳です。
纏向石塚古墳案内板

纒向石塚古墳は、奈良県桜井市の纒向遺跡の北側に築かれた初期の前方後円墳で、築造は3世紀後半ごろと推定され、古墳時代初頭における王権の形成過程を知る上で極めて重要な古墳とされているそうです。
同時期に築かれたとされる箸墓古墳やホケノ山古墳、茅原大墓古墳とともに、「ヤマト王権」の初期段階を語る資料として重要とされています。
現在、墳丘は大部分が削られて畑や民家の敷地となっており、完全な形では残っていませんが、古墳の一部や周辺の地形は保存されています。
現地には案内板もあり、遺跡の重要性が紹介されていました。
纏向遺跡想像建造物

巻向駅からほど近いところに遺構だけがあります。写真は桜井市のARガイドを使って映像再現したものです。柱跡からこういう建物があったのではないかというARで、建物の大きさなどがわかって面白い体験ができました。
纒向遺跡では、これらの建物群が初期ヤマト政権の拠点であった可能性があります。
復元建物を見ることで、3世紀の日本にすでに大規模な都市的構造が存在していたことを実感でき、卑弥呼の住んだ場所かもしれないというロマンを感じる事ができます。
ホケノ山古墳(前方後円墳)

ホケノ山古墳は、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の一角に位置する、非常に古い時期に築かれた前方後円墳です。その築造時期は3世紀末ごろとされ、邪馬台国時代に相当する可能性もあるそうです。
この古墳は、日本最古級の前方後円墳のひとつとして知られ、古墳時代の幕開けを語る上で重要な遺構とのことでした。
纒向遺跡との関係:ホケノ山古墳は、卑弥呼の都とも言われる纒向遺跡と密接に関係しており、邪馬台国との関連性が議論されている。
古墳時代の始まりを告げる存在:それまでの墓制(方形周溝墓など)から、前方後円墳への転換を示す重要な証拠とされている。
きれいに整備されているので古墳の形もよくわかるので、おすすめです。
茅原大墓古墳にて

茅原大墓古墳は、奈良県桜井市にある古墳で、纒向(まきむく)遺跡の西端部に位置しています。3世紀後半ごろに築かれたと推定され、同じく纒向遺跡内の「ホケノ山古墳」や「箸墓古墳」と並ぶ重要な墳墓です。
この古墳は他の古墳と違って、前方後円墳ではなく方形状の墳丘を持っている点が特徴ということです。
今回これら以外にもたくさんの古墳や石棺の中などもボランティアガイドさんのおかげでいっぱい見ることができました。